ウエディングプランナーって、みんなプロじゃないの?と思う人が多いと思うが、なんちゃってプランナーレベルの人も結構見うけられる。そもそもウエディングプランナーって、どんな仕事をする人なのか?それを明確にしないと、何も語ることはできないのではないかと思う。そこで、ウエディングプランナーの仕事の内容を明確にしてみよう。
ホテルでは、ウエディングを担当するセクションは、宴会部というセクションで、宴会と婚礼の両方を担う部署であるが、スタッフは完全に分かれているし、現在は、一般宴会セールスに付帯する形で一般宴会打合せチームが存在し、婚礼は、完全に独立して存在している。私がホテルに勤務していた時は、このスタイルになる直前で、まだまだ、宴会予約が、ほぼ同様のスタッフで婚礼と一般宴会の両方の打合せを行っていたし、そのスタッフが新規接客も行う。宴会のボリュームの少ないところでは、まだまだこのスタイルを踏襲している。
では、なぜ今のようなスタイルになったのだろうか。
1993年、ゼクシィに代表されるビジュアル系のブライダル雑誌が多数創刊されたが、この創刊によって、ブライダルの歴史にビフォーアフターが生じた。1989年12月に株価が最高値をつけ、日銀短観の発表をきっかけに、バブル崩壊が始まった。我々ホテルは、まず一般宴会に大きな影響が出たことを肌で感じてた。崩壊後4~5年は、まだよかったが、約10年後の1998年12月に日本債券信用銀行が経営破綻したころには、一般宴会の収入は大きく減収し、このころには、バブル崩壊の影響が遅れた婚礼にも影響が出始めた。
そんな中、日本のゲストハウスの1号店としてオープンを果たしたのがルーデンス立川ウエディングガーデンだった。アクセスは良くないが、ロケーションやハードはまさに婚礼志向を追求したもので、当時の新婦のハートを鷲掴みにするような「夢や憧れ」を充たすビジュアルでいっぱいの施設であった。その結果、ホテルでは実現できなかった高収益のビジネスが実現され、このビジネスモデルが、10年後には、日本のブライダルビジネスの25%近くのシェアを占めるようになる。
当時のゲストハウスの単価は、一流ホテルをしのぐもので、当時日本一の単価を誇ってた新宿にあるパークハイアット東京に席巻する勢いで、結果としてジリ貧だったホテルブライダルの婚礼単価を底上げできたことは、ホテル業界の救世主とはいかないまでも、好影響を与えたことは間違いのない事実であった。しかし、非常に残念なことは、この救世主的なゲストハウスも、結果的には、ブライダル業界に土足で踏み込む、まるで外来種が生態系を崩すように、ブライダル業界の文化や伝統など秩序を乱すことになった。
プランナーの素人発想は、業界を駄目にする!Part2 に続く。
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